2006年2月 8日

訃報、版画家 飯野農夫也先生


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 去る1月28日に版画家であり、詩人の飯野農夫也(のぶや)先生が亡くなった。享年92歳、ご冥福をお祈りします。

 飯野先生は、10代で上京しプロレタリア美術研究所に入り、いわゆるプロレタリア芸術運動に加わった。しかし、プロレタリア活動に関する締め付けが厳しくなり、また、故郷の隣県出身の版画家、鈴木賢二に進められ、生まれ故郷の茨城県下館市に戻って版画を深める。生まれ故郷に戻ってからは、長塚節の小説「土」の舞台となった”土と密着した農村の暮らし”を版画と詩作で表現してきた。

 飯野先生のお名前、農夫也は、”のうふなり”とかいて”のぶや”と読む。本名であり、改名もしていないと聞いた。まさに農民の日常を芸術を通して表現するために付けられたお名前のようである。戦前・戦争直後の農村は、木版画を行いプロレタリア芸術運動を続けるには厳しい時代であったと聞く。そのような環境で、素朴で力強く、どこか母性を感じさせる木版画を作り続けたことは、まさに名前に記された天命を受け、それを全うしたような人生であったと思う。

 先生には、僕が三上建築事務所で設計と監理を担当した某町の保健福祉会館ホワイエの壁画の原画をお願いしたことで、お近づきさせていただき、可愛がっていただいた。いや、勝手に可愛がっていただいていると思い込んでいるだけだったかも知れない。

 上の写真は、その壁画です。一番左のキセルの男性は、先生の奥様曰く「飯野農夫也の自画像」です。原画を受け取りに先生のアトリエに伺った時におっしゃってました。失礼だとは思いながら、”先生が若かったなら、きっとこんな感じだったんだろうな”と思いました。


全体はコチラ↓ 版画のタイトルは”野に育つ”です。

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 飯野先生の木版画やスケッチはどれも、ずっしりと重く、力強い感じがします。なんと表現したらよいのか、適切な言葉が見つからないが、手先の器用さや”明るい”とか”格好良い”とかそんな”あたりのよさ”だけで実は奥行きのないコマーシャルな芸術とは全く対極にある”胸の奥を押さえつけられるような感触”を感じます。

 しかし、この壁画では、重く暗い苦しさがなく、日々の暮らしの合間のホッとするひとときを描いた、どこか明るい作品だと感じました。この絵を原画とした壁画の置かれる場所、町民の健康と幸福のための場ということを考えて描いたとのだと思います。また、原画は木版画であり、壁画はそれを拡大して模写・焼き付けた陶板であるため、色彩や構図などの絵の密度も薄くなり力強さや重量感を感じにくいのかも知れません。

 壁画は、版画を原図として大型陶板に模写し焼き付けるという製法でつくられました。陶板制作の窯は滋賀県の信楽でした。焼き付け前の模写の具合と見本焼きの検査の時に先生にお供しましたが、壁画の検査の後、先生は信楽焼のタヌキを丹念に見て回っておられたことを覚えています。先生は、芸術とは、美術館に展示しておくようなモノだけでなく、日常の生活の中にこそあると思っているのだなと勝手に解釈しました。

 また、先生は、戦前のプロレタリア詩人や画家、版画家、画廊等の蒼々たる知り合いが多い、そのうえ非常に記憶力が良く、いつもお話を伺っていると、「何年の何月に誰々からこういう手紙をもらった。あれはこういうことだったんだな。」と反芻しておられた。人生を深めるとはこういうことなんだなと妙に感心した。ところが、内容については聞いている僕が知識も教養もなくチンプンカンプンなのであった。大変失礼な聞き手だったのだ。

 今、手元に先生からいただいた著書「詩と文、郷土からの」がある。先生が古希の時にまとめられた全570ページになる詩と短文集である。分からないなりに読んでみよう。何かを感じ取れたらと思う。

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