旧陸軍航空通信学校
自宅の土地を購入するときに、近所の人たちに挨拶がてら「この辺は昔は何があったんですか?」と尋ねたところ、「林」「開拓」という答が多かったが、「昔の軍隊の飛行場」と答えた人がいた。その時は、”戦争中は、平地であればあちこちに小さな飛行場があったって話だから、そんなモンなのだろう”と思っていた。とにかく、「飛行場」ってからにはそんなに造成しなくても元々平らで乾いた土地だということが判り、住宅を建てるには安心だなと思った。。
この碑文を発見したので、そんなことを思い出し、早速ググッて見た。
昭和13年水戸飛行場を設定し、水戸陸軍飛行学校が開校。通信、戦技、武装、高射、化学戦、自動車、特操、佐尉官、少年飛行兵等の教育と研究を実施し、東部に陸軍航空審査部水戸試験場が設置された。
昭和15年、水戸南飛行場に陸軍航空通信学校が開校され、通信教育と研究を移管した。
戦局の要請により昭和18年8月、明野陸軍飛行学校分校が開校、水戸校は仙台に移駐した。
昭和19年6月、分校は常陸教導飛行師団に改編、精鋭空中戦士の養成と研究に加え、本土防衛の作戦任務を附与された。
昭和19年11月以降、特別攻撃隊一宇隊、殉義隊、第24振武隊、第53振武隊、第68振武隊、平井隊、誠35飛行隊、第68振武隊の勇士70余名は相次いで進発、レイテ沖、台湾、沖縄、海域に敵艦船を求めて突入し国難に殉じた。
とあった。「水戸飛行場」というのは、ちょっと離れた現在のひたちなか市にあったらしい。自宅の近所は、「水戸南飛行場」という名称の陸軍施設だったらしい。この飛行場は滑走路ではなく、滑走帯で離着陸する飛行場で、大きさは1600m×1100mだったという。そこにおかれたのが旧陸軍航空通信学校だったということが判った。
ちなみに、水戸飛行場(ひたちなか)の跡地に、この学校の校門の門柱が保存されているそうだが、昭和58年に学校跡地の畑に埋まっていたものを掘り起こして持って行ったとのこと。(陸軍で唯一の航空通信学校だったというのに、いやはや・・・。まぁ、こんなモンでしょう。)
個人的には興味は尽きないのだが、今日のところはここまで。
旧陸軍航空通信学校の跡地は、現在、茨城県立音楽専門学校となっている。きな臭い学校の跡地に、音楽専門学校。せめて音楽で鎮魂と平和を!
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